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『ブライト・ブライト』(山本&雲雀小説) 前編

(やべ)

放課後の部活を終えて制服に着替え、帰り支度をしてスクールバッグのファスナーを開けた山本は、思わず舌を出した。

英和辞書を教室に忘れたことに気づいたのだ。普段も机に入れっぱなしにしている辞書だが、今夜はそれを頼りに取り掛からなければならない宿題がある。提出期限である英語の授業は明日の一限、朝練のあとではとても間に合わない。

開き直って帰ってしまおうかとも考えたが、学校を出る前に気づいたのも英語の神様のお告げかもしれない、と珍しく殊勝に思い直す。

(たまには宿題をするのです、山本武、って?)

脳裏に思い描いた英語の神様は、ギリシア神話のような白いローブを着ていてもやはり中年の英語教諭の顔をしていて、山本はつい吹き出した。一人で笑っている山本を不思議そうに見る部活仲間に手を振り、山本はバッグのファスナーを閉めて部室を出た。

初秋の日暮れは早い。遠くの夕焼けがだんだんとその光を閉じていくのと同時に、暗い夕闇が忍び寄り始める。
辞書を放り込んだバッグを肩に掛けて校舎を出た山本は、校門に向かってひとり校庭を横切っていたとき、前方から来る人物に気づいた。

薄闇に沈み始めた校舎の陰影を避けるように、砂を踏みながら歩く細い影。闇に溶ける黒い学ランの上下とは対照的に浮き上がるような白いシャツの色。腕章だけが赤く、彼――雲雀恭弥の風紀委員長という地位を知らしめているようだった。両手に武器を構えていない今も、独特の研ぎ澄まされたような空気を漂わせている。

「おつかれー・・・っス」

校舎から校門に向かう山本と、校門から校舎に向かう雲雀。表情が見えるまでに近づいたときに一応の会釈をした山本の顔を見もせずに、雲雀は直線的な身のこなしですれ違い去っていく。しかしその時、山本は雲雀の不自然な身体の動きに気づいて振り返った。

野球という全身運動を長くやっていると、他人の身体の動かし方に敏感になる。バランスの崩れた動作が、音階の外れた授業チャイムのように、気になってしまう。

常に均整の取れた、無駄のない動きをしている雲雀だから、その不自然さが余計に目立って見えた。

「ヒバリ」

呼びかけると、細い後姿が立ち止まった。その背中に向かって、山本は言う。

「ケガしてんの」

「してない」

振り向かないまま、短い答えを返して再び歩き始める雲雀。しかし早すぎる返答に山本は逆に確信する。本当にケガをしていないなら、聞かれたこと自体を不思議に思うだろう。

歩くときに振れる腕の不規則さ、無意識にかばうような歩き方。きっと右腕だ、と見当をつけて来た道を戻り雲雀の右側に回りこむと、果たして白いシャツの右腕が裂かれて僅かに血の色を見せていた。

「してんじゃん」

ちょいちょい、と指でシャツを染める朱を指すと、雲雀は少し背の高い山本の顔を見上げて片目を細め、不満そうな表情を作る。

「だったら何。きみに関係ないでしょ」

「ん・・・まあ」

見たところ、軽い裂傷。出血も止まりかけているし、命に関わるケガというわけでもない。黙る山本に再び背を向けて歩き出した雲雀が向かうのは、やはりといえばやはり、応接室のある校舎の東側で。それに気づいた山本は再び声を投げる。

「ヒバリー、保健室あっちー」

「うるさい」

にべもない答え。もちろん、彼が保健室の場所を知らないわけもないのだが。

「男は治療してくれなくても、薬くらいはくれると思うぜ」

「あの保健医の顔なんて見たくもないよ」

「じゃあ帰って病院行ったら」

「本当にうるさいね。仕事が残ってる」

「うちの部室に救急セットあるから寄ってけば」

山本の言葉に、雲雀はついに足を止めて振り返る。
笑顔で広げたてのひらを振る山本を見て、根負けしたようにひとつ、ため息をついた。

部室棟の一階の西端。部活仲間はもう全員帰ってしまったようで、窓から伺える室内は真っ暗だった。山本は「野球部」と書かれたプレートのついたドアの前にしゃがみこんで泥除けのマットをめくる。マットの下から探り出した小さな鍵をドアノブに突っ込み、がちゃりと音を立ててひねった。盗られる物など何もないので、どの部活もドアの周辺の適当なところに鍵を置いている。野球部もまったく、例外ではなかった。

ドアを押し開けて電気のスイッチを押す。二、三度じれったくまたたいて、暗い室内に蛍光灯が点った。持ち主の分からない古いスニーカーやサンダルの脱ぎ散らかされた狭いたたきを上がると、左右に物を入れる棚をしつらえた六畳ほどの部屋がある。

棚にはハンガーに掛けられたジャージや練習用ユニフォームが雑然と並び、ボールやバットやグローブを入れた箱や籠が所狭しと置かれ、そしてそれら全てに、何年分もの土と汗の匂いが芯までしみついていた。山本はもうすっかり慣れてしまっているが、部室に入った瞬間、雲雀が眉根を寄せて鼻をひくつかせたのが視界の端に入った。

「座って」

後ろの雲雀に声をかけて、山本は棚の下から救急箱を取り出す。四角い箱を抱えて立ち上がり振り返ると、仏頂面の雲雀が固い畳の上にそっと腰を下ろしたところだった。

幅が狭く奥行きがやや長い長方形をした部室は、物が多いこともあり、残念ながら足を悠々と伸ばせるほど広くはない。前に投げ出そうとした膝を少し曲げて漆喰の壁に背をつけている白い横顔を見ると、その表情はやはり不機嫌そうで。

「ほこりっぽくてごめんな」

同じ中学校の校内でも、雲雀が根城にしている、掃除の行き届いた応接室とは雲泥の差といえるかもしれない。汗まみれ血まみれになってケンカをするくらいだから、潔癖症ということもないのだろうが、山本は謝罪の言葉を口にしながら救急箱を抱えて戻った。壁に背をあずけて座る雲雀の正面に、あぐらをかいて座る。

「腕。みせて」

山本の言葉に、雲雀は顔をしかめた。

「さわるな。自分でできる」

「ヒバリ左利き?」

山本の方が背が高いので、立って並べば見下ろす格好になるのが普通だ。しかし今はお互い畳の上に腰を下ろしているので、目線の高さが同じになる。問いかけた言葉に強く睨み返されたが、山本は気にせず笑った。

「遠慮すんなって。オレ上手いから。部活でケガすんのしょっちゅうだから」

「・・・・・・」

しばしの沈黙のあと、雲雀は息をついた。押し問答をするのも面倒になったのか、羽織っていた学ランを無言で肩から払い落とす。長袖のシャツの袖を捲り上げて、ずい、と山本の目の前に右腕を突き出した。

あまり日に焼けていない、どちらかというと細い腕。その外側、ひじのすぐ下に、鋭利なナイフで切られたような傷口がひと筋、赤く開いていた。出血はすでに止まっている。

「洗った?」

土や砂は付着していないようだが、念のためにと、前髪の間からのぞく雲雀の瞳を覗き込んで問う。小さくうなずかれたのを確認して、山本は左手で雲雀の手首を軽く持ち、右手でオキシドールの瓶のふたを開ける。中身を傷に振り掛けると、消毒液特有のツンとした抜けるような匂いが鼻をついた。

傷の上からガーゼをかぶせ、親指で押さえた。山本は、消毒液が染みても眉ひとつ動かさない雲雀に感心しながら、その白い腕に丁寧に包帯を巻きつける。救急箱から取り出したハサミで包帯の端を切り、テーピング用のテープで動かないように止めた。

「一丁あがり」

山本はふっと息をついて、包帯の玉とハサミとオキシドールの瓶を救急箱に戻してふたを閉める。

「ひじ、曲げれる?きつくない?」

聞くと、雲雀は無言でひじを曲げてみせる。

「大丈夫みたいだな」

うんうん、とうなずいて満足気な表情を見せる山本を横目で見て、雲雀は少し神経質そうな仕草で包帯の上から腕をこすった。
山本は立ち上がって救急箱を棚に戻す。少し考えて、口を開いた。

「なあ。聞いてもいい?」

床に腰を下ろしている雲雀が、立っている山本の顔を見上げる。

「なんでケンカすんの?」

山本の問いかけに、雲雀は眉間にしわを寄せていぶかしげな表情で見返してきた。

「こーいうケガとかするじゃん。相手もケガするじゃん。どうしてするんだろうって」

それを聞いた雲雀は、わずかに目を細める。
切れ長の瞳が細められると、その漆黒の色が一段深まったような気がした。

数秒の沈黙。口を開いたのは雲雀。

「きみはなんで野球するの」

「え?」

黒い瞳に問いかけられて、山本は面食らう。

「しょっちゅうケガするって言ったじゃない。なんで、それでもするの」

「なんでって。野球好きだし。楽しいし。特に理由とかはねーけど」

「試合に勝ったら嬉しい?」

「そりゃ・・・そーだろ」

その答えに、黙って山本の顔を見上げていた雲雀は口元だけで笑った。

「そう。良かったね」

「う・・・ん」

煙にまかれたように目を白黒させる山本から目をそらして、雲雀は畳に手をつくことなく俊敏な動作で立ち上がる。畳の上に落ちていた学ランの上着を拾い上げて肩に羽織った。

「じゃあね」

そのまま靴を履いて部室から出て行こうとする雲雀に、山本は慌てて声をかけた。

「あ、もう一個だけ!聞いてほしいことあんだけど!」

「聞かない」

「ホータイ代だと思って!」

すでにドアノブに手を掛けていた雲雀は、その言葉に足を止める。
自分の腕に巻かれた包帯を見て、山本を振り返り鋭い目で睨んだ。

「いい性格してるね」

「へへっ」

笑う山本に、雲雀は毒気を抜かれたようにため息をついた。

「言うだけ言ってみたら」

「ありがと。あのさ、あの、」

言いかけて、少し言いよどむ。頭の中で急いで言葉を整理した。

「オレさ。初めてケンカしたのって、小三のときだったの」

思い出すように、山本は言う。

「学校行く途中で、クラスの奴が高校生二人にからまれてるの見かけてさ」

雲雀はドアに背をつけて腕を組み、黙って話を聞いている。

「オレ小四くらいから急に背が伸びた方で、そのときはどっちかって言ったらチビな方で。ボコボコに殴られて蹴られて、すげー痛くて、でもオレ勝ったの。ケンカの仕方なんて知らなかったけど体力はあったし、そいつら人の急所とか弱点とか全然わかってなかったから」

山本は少し深呼吸をする。

「ボロボロにされて遅刻して職員室で先生に叱られて、でもクラスに戻ったら完全にヒーロー扱いだった。助けた奴がクラスのみんなに言ったんだよな。みんなに囲まれて武勇伝語っちゃったりしてオレも結構調子に乗ってたんだけど」

そう、それは確かに最高の一日だった。
昔から友達は多かったし、人の輪の中心にいるのは日常的で珍しいことではなかった。しかし予想外にすごいすごい、と言われて一日中その話をせがませれてやはり鼻が高くて、足取りも軽く家に帰ったことを覚えている。

だが。その日の夜。

「寝る前に、ふと思った。ボールを少しでも遠くにかっ飛ばしたくて、一秒でも早くベースに滑り込みたくて、毎日トレーニングしてっけど、そうやって身につけた力って」

山本は握ったこぶしを見る。

「人を傷つけることにも、余裕で使えるんだって。そしたら」

こぶしを一度開き、また強く握る。

「急に怖くなった」

あの日。殴られた頬よりも、蹴られた腹よりも、最後まで痛みが残ったのは右手のこぶしだった。初めて人の顔を殴って、皮膚の下の骨に当たって、甲の皮がむけて赤くなったこぶしを、左のてのひらで握りしめて、布団の中で震えながら夜明けを待ったことは父親も知らない。

人を殴ってできた手の甲の傷は一週間ほどで完治したが、その傷をつけたのは、もう顔も覚えていない高校生ではなく自分の中に巣食う獣。見えない獣の見えない牙。あの日偶然見つけてしまった、自分の中の暴力性。荒れ狂う嵐のように好戦的な獣。その存在にただ怯えていた、小学生の自分。

知らずうつむいていた山本が顔を上げると、ドアに背をあずけて黙っていた雲雀が口を開いた。

「僕に何か言ってほしいの」

見えたのは漆黒の双眸に宿る鋭い光。視線に射抜かれるような錯覚に、山本は思わず息を呑んだ。

「期待するのは勝手だけど、僕に都合のいい答えを期待しても無駄だよ」

「いや、そういうわけじゃ」

「力が諸刃の剣なのは自明でしょ。そんなことも分からない平和主義者にも見えないけど、甘えたいならあの草食動物にでも甘えればいい」

とっさに否定しかけた言葉にかぶせるように、雲雀は温かさはもちろん、冷たさすら感じさせない硬質な声で言う。甘え、という単語が山本の胸にずしりと響いた。

言葉を返せずにいる山本に背を向け、振り向かないまま雲雀は小さくつぶやく。

「僕を巻き込むな」

それきり言葉を発さず、雲雀は部室のドアを押し開けて出て行った。

残された山本は、静かに閉まるドアを見ながらその場に腰を下ろす。ゆっくりと後ろに倒れこんで、大の字に仰向けになる。

「ですよ、ねー・・・」

小さくつぶやいてまぶたを閉じる。ひじを曲げて腕で目を覆い隠す。
人の声も物音も、何も聞こえない。静かだ。

(・・・僕を巻き込むな、か)

優しい反応を期待したわけではない。彼にそんなものを期待するのは、それこそナンセンスだと思う。

しかし、最強無比の名をほしいままにする雲雀なら分かってくれるかもしれない、という期待があったことは確かだ、と山本は気づかされる。それが甘えだというなら、そうかもしれない。そう、彼は正しい。ただ、自分にも言えなかった言葉がある。

うまく伝える自信がなかったから、今日まで誰にも言ったことはない言葉。

本当に怖かったのは、人を傷つける力を知らないうちに手に入れていた自分ではなくて。
人を傷つけることにまったくと言っていいほど躊躇しなかった自分だったということ。

この数年間は、身体の成長と同時に笑顔で人をいなす術を身に着けて、いつしかそれが自然になって、大きなケンカをする場面に出くわすこともなく過ごせてきた。小三のときの「事件」のことも徐々に忘れていくことができた。山本自身、自分は暴力的な人間ではないと信じてこられたし、周囲はもっとそう思っているだろう。

なのに。

自分は今まで、その凶暴で衝動性の塊のような獣を、野球というスポーツに集中させることで無意識に発散させあるいは押さえ込んできたにすぎないのだ、と思い知らされた。なぜなら一年と少し前。その野球がケガで続けられなくなるかと思われたとき、その獣の牙はあろうことか、瞬時に山本自身に向かい自身を殺そうとしたからだ。

大切な友人まで巻き込んで。

そして、獣の眠りを決定的に呼び覚ます出来事がつい先日、起こった。奇怪な技を使う黒曜中の少年、その純粋な悪意と対峙したとき、名前のないその獣は、これで堂々と暴れられるとばかりに、萎縮するどころか嬉々として自分に武器を振るわせた。水を得た魚ならぬ獲物を得た獣。それがきっと、あのときの自分の姿。

人を打ち倒す感触が、地に伏す寸前の相手の目が、血の匂いが色が、脳裏にフラッシュバックして、そして今も、どこかで再びそれが起こることを期待している自分がいる。それを望まない自分も確かにいる。でも望む自分もいる。このままではきっといつか呑まれてしまうと、考えれば考えるほど、気がふれてしまいそうになって考えるのをやめる。

その繰り返し。

その暗い目をした獣はまだ自分の中にいて、ときどき顔を覗かせてこちらを窺っている。
制御できるかどうかも知れない獣を体内に飼う自分は、「異常」なのだろうか。

「わかんねぇ・・・」

腕の下で閉じた瞳。唇からうめくような声が漏れる。
聞けなかった言葉が、頭の中でわずかに反響して。

光と影。善と悪。表と裏。生と死。

白と黒の二色にきれいに塗り分けられていた自分の世界が。
少しずつ、揺らぎ始めたような気がしていた。

To Be Continued...
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