『むきになって -Fast zu ernst-』
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「オレおまえきらい」
部屋のやや奥寄りに据えられた猫足の瀟洒なカウチソファが突然口をきいた。
「奇遇ですねーミーもですー」
壁一面を埋め天井まで達する巨大な本棚の前に立つフランは、棚から抜き出した分厚い書物のインデックスを確認する作業を止めないまま無感動に言い返す。
キーワードとなる単語を目次からすくい上げようと試みているところだった。いま手に取っているのはフランにとってほとんど馴染みのない言語で書かれた本で、意識して集中しないと目線はすぐに文字を文字として捉えることなく紙の上を滑っていってしまう。これもハズレ、と小さく息をついて、目当ての単語を見つけられなかった本を爪先立ちで本棚に返す。
伸ばした指先で背表紙をつついて、高い本棚の中腹に分厚い本を押し込んだ。そろそろ踏み台になるものがほしい、と首を回すと、ちょうどカウチソファの上でかたまりのようになっている幅広のブランケットがもぞもぞと動くのが視界の端に映った。くすんだ空色の毛布の端から金髪が一房はみ出している。
「おまえ自分のこと嫌いなわけ」
「そっちの意味じゃないですー」
緑青石の瞳に呆れをにじませて、フランは遠慮のない言葉を投げ返す。室内に踏み台にできそうなものが見当たらないことを確認すると、潔く諦めてまた本棚に向かった。
「っそ」
あっそ、と言ったのだろうが、いまだ毛布の中から出てこようとしないカウチの主のくぐもった声は、さほど離れた場所に立つわけでもないフランの耳にもよく通らなかった。
ここはライブラリとかラボとか呼ばれている、ヴァリアーの城の中でももっとも広い資料室、その続きの書庫だ。表の書架に出されない、相当に古い書物が目録の有無も怪しいままに雑然と放り込まれ詰め込まれ、収まりきらずにあふれ出した書物や資料の束がそこかしこに山と積まれて地層を成し、そのどれもが薄い埃をかぶっている。要するに紙束専門の物置だ。
資料室からつながる扉はいまは閉じられているが、壁の一角を占める中庭に面した大きな窓から午前中の柔らかな陽光が差し込んで、乱立する書物の塔の間を移動するたびに細かな埃が羽虫のように舞った。
「部屋で寝てきたらどーですかー」
カウチの主が昨晩遅くに日本からの深夜便でイタリアに帰国してきたことは知っていた。この書庫という名の物置に放置された場違いなカウチは確かに二人分はゆうにありそうな幅を誇ってはいるが、所詮はソファ。ベッドの寝心地とは比べるべくもないだろう。そう思って、というよりはなぜか執拗に背後でごろついている存在がそろそろ本気で鬱陶しくなってきて、フランは焼き菓子の仕上げに振りかける粉砂糖のように言葉の表面だけを優しく覆って提案してみた。もっと短く端的な言葉で表すことももちろんできる、要するに「出て行け」だ。
しかし。
「オレ、きらい。おまえ。だいっきらい」
寝言のように途切れ途切れの言葉を子どものように繰り返されて、フランは大げさにため息をつく。ついに振り返った。
「なんなんですか、さっきから。ミーいま忙しいんです師匠に頼まれて探し物してるんですー」
白蘭に支配された世界から決別して数ヶ月。無事に脱獄を果たし悠々自適の生活を取り戻した師匠から珍しく通信が入ったのは今朝早くのことだった。読みたい貴重本がある、どうやらヴァリアーの書庫にあるらしいのだが、と。
せっかくの休日にとんだ迷惑だと思いながらも、仮にも師匠の頼み、そしてここでひとつ貸しを作っておくのも悪くない、と打算まじりに引き受けたフランだったが、朝一番で資料室を訪ねてみれば運悪く司書が休暇をとっていた。今どきデータ化もされていない紙の本を、わざわざ手を使って一冊一冊確認する作業をすることになるなんて、と内心文句を連ねながらも手がかりとなる単語を書き連ねたメモを片手に奮闘するフランは、朝から書庫にこもってもう三時間あまりになる。
そして本などにまるで縁のなさそうな自称王子がふらりと姿を見せ、背後のソファで無言のままごろごろし始めたのは今から一時間ほど前からのことだった。その間、ときおり先ほどのような切れ切れの単語を発してくるだけで、ひたすら自室からひきずってきたらしいブランケットにもぐりこんでいる。いつも以上に意味が分からなかった。その言葉も、その行動も。
「だからさおまえいつまでここいんの」
怠惰なカウチにくるりと背を向けてまた別の本を引き出し開いたフランの耳に、一段と気だるげな声が届いた。なにからの「だから」なのかはまったく分からなかったが、フランはページを繰る手を休みなく動かしながら上の空で答える。
「さあ、あと一時間くらいで見つかるといいんですけどー」
「ちげーよ」
不意に手元が陰った。
無意識に想定していたよりもずっと近くで発された低い声。
「いつヴァリアー出てくんだって聞いてんの」
「は?」
手元に差した影で細かな文字が隠される。抗議の意味も込めてあごを上げた目線の先、顔のすぐ上に悪戯にハネた金髪と唇を曲げた顔があった。
「もうマーモンいんだし、おまえいらねーし」
手のひらに分厚い本を広げたまま、フランは感情のこもらない瞳でベルを見上げた。音もなくカウチを抜け出して立ち上がり、本棚にひじをかけて寄りかかる上背はフランの身体を隠すほどには大きい。テーブルを挟んで座るような場面ではさほど気にならないが、距離が近づくほどに相当な体格差があることを思い出させられるのは少し不愉快だった。
「・・・はあ」
いらない、ということは現実的に考えてありえない、とフランは冷静な頭で思う。だいたい、霧の術士は万年人手不足なのだ。白蘭との長い戦いの末に、もともとの霧の幹部だったマーモンは蘇ったが、自分もそのままこの組織に居残った。相変わらず仕事は多く、要求される術は高度化するばかりで、諜報部は常に優秀な術士の情報を求めて世界中を奔走している。仮にも幹部である目の前の王子がそのことを知らないはずもないのに。
「なにが言いたいのか分かりませんがー」
と、頭の中ではひととおりの考えをめぐらせたものの、結局「分からないし/分かりたくもない」という無味乾燥な結論に至って、フランは一言だけベルに告げた。意味もなく絡まれるのも癪に障るが、意味があるとしてもそれはそれで面倒だった。
「さっさとあのパイナップルのところに帰れよ」
「それはミーが自分で決めることですーセンパイには関係ありませんー」
淡々と返して、フランは少し本棚に寄ってベルの陰をすり抜けた。その背中を低い声が追いかけてくる。
「牛」
「ウシ?」
「いんじゃん。あの守護者のウシ」
「ああ、はあ」
あの人ね、と牛柄のシャツを好んで着ている年若い青年の姿を脳裏に思い浮かべる。特に話す機会も無いが、ボンゴレの次期正守護者なのだから当然、その顔と存在くらいはフランも知っていた。でもそれだけだ。目の前の王子にしても特段仲良くもなかったはずだが、彼がどうしたというのか。
「あの牛とさ、日本行ったときになんか暇だったしちょっと話したんだけどさあ、なんかバズーカがどうとかでこの前ひさしぶりに十年前に行ったんだって」
「はあ」
話は相変わらず見えないが、厄介な先輩がようやく途切れ途切れではなくまとまった文章を話すようになったので一応、手を止めて耳を傾けることにする。
「十年前に行ったらさ、おまえ頭打ってオレらの記憶なくした挙句、ヴァリアー入んねーでパイナップルのとこに行ったっつって」
「・・・ああ」
なんだそういう話か、と思う。
自分にしたって無理やり連れてこられなければそうだったのだから、十年前の世界の自分がその選択をしたのも当然だろう。だから、無感動にうなずいてみせる。
「まあ、そうでしょーねー」
「ムカつくんだよ。なに勝手に逃げてんだよ」
「勝手にって、だって、そもそも」
「だからもーいいし。おまえもさっさとナップルのとこ行けっての」
拗ねたような言葉と態度。本日の奇行の原因はどうやらこれか、と合点がいくと同時にフランは心から嘆息する。本当に、もう、
(ガキですねー・・・)
そんなくだらないことで怒るというかむきになるというか拗ねるというかいじけるというか、この殺しの天才はそういうところが絶望的に子どもだ。しかしそれをそのまま口に出しては火に油、フランは信念を曲げて比較的穏やかと思われる言葉を頭の中で検索する。慣れない思考に頭痛が始まりそうだった。
「だって頭打って記憶なかったってセンパイいま自分で言ったじゃないですかー。今のミーには関係ないことでしょー」
「じゃあさ。記憶あったらおまえこっち選んだ」
「え」
不意に問いかけられた言葉は、完全に予想外の方向から投げられた変化球で。
フランは咄嗟に答えられなかった。
「おまえこっち来た」
繰り返されるぶっきらぼうな疑問形。因果な暗殺稼業のせいかそれとも生まれつきの資質のせいか他人よりもだいぶ色褪せているとはいえ、フランも一応ひとそろいの「感情」なるものは備えている自覚はある。だからこの王子が自分に回りくどくぶつけてくる言葉の意味するものを、ここにきてようやく理解できた。ような気がした。
切り捨てる側に立つことには充分すぎるほどに慣れているこのワガママ王子にとって、たとえどんな理由があろうと、そしてそれが影響の及ぼしようのない別の世界の出来事だろうと、逆に「切り捨てられた」ことにいい気持ちはしなかったのだろう。当の本人にその自覚があるかどうかは別として。
いい気持ちはしなかった、よりもう少し強い。
むかつく、よりもう少し哀しい。
あいにく、その腹立たしいほどに繊細な感情を正確に表す言葉なんて、自分の語彙にだってまったく存在しやしないのだけど。せめて寂しい、の一言も言えない寂しがりや。もはやただの病気だ。
(王子は王子でも)
(おとぎばなしの王子だ)
他人がいなくなる姿を見ないですむ一番手っ取り早い方法は自分がさっさと死ぬことだけど、他の幹部連中同様、この王子もまた、それを期待するにはまだしぶとすぎる。きっと。
(ああ、もう、)
世話の焼けることこの上なかった。
「・・・・・・・・・・・・ええ、はあ、まあ、たぶん」
来たと思いますよ。ぼそっと吐き出した言葉を聞いて、ベルは唇を曲げる。フンと鼻から息を吐くと元いたカウチソファに戻り、どっかりと腰掛けて腕を組んだ。
「で、なに探してんだよさっきから」
足を開いた横柄な態度で今さらすぎる問いを投げてくるベルの声のトーンは、先ほどよりも二、三度高い。どうやら機嫌が持ち直したようだ。フランは色の薄い瞳を細めて、脳内に激流のように渦巻く面倒くさい面倒くさい本当面倒くさい、という言葉が口の端からうっかりこぼれないように喉に力をこめた。
持ち上げてやるつもりはさらさらないが、この妙な絡み癖を自主的にやめてくれるならそれに越したことはないからだ。ああ、なんて面倒くさい。
「だから師匠に頼まれた本ですー。『幻術論・有幻覚学、特殊および一般相対性理論』の第七版を原書で」
「何語」
「著者がロシアの隠者なんでたぶんロシア語ですー。ミー、ロシア語よく分からないんでちょっと手間取ってますけどー」
それを聞いたベルはあからさまに勝ち誇ったような顔をした。
ソファからさっと立ち上がり、鼻歌を歌いながらフランの隣に並び立って正面の書棚を滑らかな目線で見る。やがて腕を伸ばして、フランの手の届かない高い場所に無造作に押し込まれていた装丁本を抜き出した。口角を上げて笑みを浮かべながらフランの目の前に突き出す。
「おらこれだろ」
眉をひそめながら突き出された本を受け取り、メモと見比べながら目次を確認してどうやら正解のようだと把握すると、フランは安堵感以上の深い脱力感に襲われた。見知った部下や隊員にロシア語話者がいないことはもちろん最初に確認している。そしてそのまま諦めていたのだ。
「もっと・・・もっと早く・・・」
「ん?なに?ありがとうございましたベル王子様、は?」
「黙れ堕王子」
ため息とともに吐き出した言葉を残して、フランは本を胸に抱いて振り返りもせずに書庫を出ていった。
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THE END
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